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深く切り込んだ長崎の港に沿って広がるわずかな平地が長崎の中心です。狭い市街に多彩な魅力が多く、路面電車1日券を買いまして |
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原爆の爆心地浦上地区にある平和公園を尋ねました。土曜日でしたので沢山の人が訪れていました。 |
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階段にはかわいい花が続いています。とてもかわらしく綺麗です。その脇をエスカレターで上がっていきます。 |
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大きな噴水の中心に見えるのが平和を祈願する祈願像です。上に伸ばした手は地上の平和を、とじた瞼は原爆犠牲者の冥福を祈っています。 |
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祈願像手前には平和の泉があります。水を求めながら死んでいった犠牲者たちの為に、たえず豊かな水をたたえています。
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原子爆弾落下中心地に昭和20年8月9日、上空約500mで原爆が炸裂しました。約75000人の人が負傷しました。そして |
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74000人の方が亡くなりました。この地を中心として2,5Kmに及ぶ地域は壊滅し、長崎の町は廃墟と化しました。 |
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被爆の実相を伝えて、平和の尊さを訴え続けています。 |
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原爆を経験した人がボランティア活動で公園の案内をしておりました。お話を聞いておりますと苦しくなりました。
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今の世の中、福島での原子力発電の事故。今もなお帰れない人たちが多く、そして今も続いている原子力発電所のトラブル |
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これでもまだ、原子力発電を続けようとしている人々、私たちの国は将来どうなるのでしょうか?子供たち、孫たちに |
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これからも平和で安全な日本で過ごせるよう心からお願いしたいと思います。 |
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永井隆博士長崎市名誉市民第1号となりました。研究室で長年取り組んでいた放射線の障害を受けて、白血病にかかってしまいました。 |
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余命あと幾年もないと診断され日に、妻にすべてを打ち分けました。それが最後の別れとなりました。原子爆弾が投下され、 |
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爆心地近くの長崎医大にいました。猛烈な爆風に吹き飛ばされて、無数のガラス破片を浴び重傷を負いました。何度も倒れては |
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起き上がり、3日間救護活動を行いました。 |
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如己堂は2畳1まきりの家、己の如く人を愛す という意味をもった家、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、 |
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見る目、書く手だけ持つ廃人の博士を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして数々の友の |
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如己愛は絶えずこの家に注がれて来ました。 |
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この子を残して、この世をやがて去らねばならぬのか 母のにおいを忘れて、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、 |
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私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。 この子たちを残してこの世を去らねばならない悲しい運命を |
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博士はどんなにか辛かったことでしょう? |
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長崎市永井隆記念館 戦後子供たちのすさんだ心を少しでも豊かにしようと、私財を投じて子供の為の図書室を自宅横に増築しました。 |
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アメリカでは寄進運動が起こり、市民から数千冊の洋書が寄贈されました。 |
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昭和44年には長崎市永井記念館と改称されました。 |
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最期まで世界平和を願い続けた博士の壮絶な生涯を紹介しています。 |
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小高い丘の頂にそびえる天主堂、キリシタン弾圧に抗して250年以上の長い潜伏に耐えた信徒たち33年の歳月をかけて完成した天主堂 |
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東洋一の大きさを誇る教会だったが原爆投下で倒壊。昭和34年に再建されました。昭和56年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世訪れた |
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時に煉瓦タイルの外壁に改装しました。かつての面影がよみかえりました |
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被爆の惨状を示す資料の数々や遺品を大切に保存しています。展示や平和の重要さを教えるとともに核兵器の現状も紹介してます。 |
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原爆がなぜ投下されたのか経過や核兵器開発など年代別に並べて分かりやすくなっております。 |
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現在までの復興の様子、忘れてはならない、戦争の恐ろしさと平和の尊さを感じる資料館です。 |
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1796年ドイツ学都バイエルン州ヴュルツブルクに生まれました。 |
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シーボルトは1823年長崎に着きました。彼は出島のオランダ商館で商館員の健康管理にあたり、阿蘭陀通詞たちと交流を深め、 |
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日本についての知識を得ました。出島で長崎に遊学した医師たちに医学や植物学の講義を行ったほか、長崎奉行所の許可により |
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長崎の町で日本人を診察し、名医あらわれるという評判が広まりました。 |
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医学、薬学、動植物、物理学等日本の近代学問の礎を築きました。 |
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中華街にて昼食 ラーメン、チャハーンうを頂きました。 |
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西坂で処刑された二十六聖人に捧げるために、1864年フランス人宣教師により建てられました。日本最古の木造ゴシック様式教会 |
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聖堂内を飾ってあるステンドグラスには100年前のものもあります。国宝に指定されております。 |
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祭壇中央の十字架のキリストは1865年フランスの修道院から寄贈されましたが原爆の爆風で大破しました。戦後修復されました。 |
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この長崎の地はキリスト教徒にとって殉教の聖地です。大浦天主堂はキリシタン弾圧のなかで、あらゆる困難を乗り越えて完成しました。 |
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この15年後に規模を拡張するなど大きな改造をくわえた姿が現存の天主堂あります。現存するわが国最古の教会堂です。 |
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美しく近代日本発祥の地 グラバー園 |
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外国人居留地であった南山手の高台に市内から由緒ある洋館8棟を集めて復元した公園。 |
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遠く大洋の波を越えて、夢を抱いてやってくる異国の商人たち、倒幕の野望に燃える幕末の志士たちや、西洋の学問を志す日本の若者たち、 |
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あれから100年以上たった今も、ここはグラバーたちが暮らした 当時の記憶が共に長崎を愛し長崎に暮らした貿易商人たちの邸宅が、 |
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形を変えることなく残されています。どの邸宅を見ても果てしないロマンが感じられます。 |
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出島はキリスト教の布教を禁じ、住民と隔てるために、長崎の岬の突端に人工的に築かれました。 |
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1641年ポルトガル人の来航が禁止されると平戸にあったオランダ商館が出島に移されました。以後200年以上にわたり、 |
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鎖国期における西洋に開かれた唯一の窓口となり、海外から様々な貿易品や学術、文化が伝えられました。 |
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現在では復元計画が進められています。出島の歴史を伝える企画展示やシアターなどもあります。 |
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昔の時代に帰ったようで楽しめました。 |
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長崎飛行場 出発14:05東京へ 待合室 |
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予定通りの日程を無事に終えました。来る時は寒く、今日、帰る日は暑くなりました。 |
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今回の旅は何年もの間受け継がれ、世界の宗教史の上でも、劇的で感動的な物語のひとつが展開された舞台でもありました。
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長崎の教会群を世界遺産にと主張する第一は、250年もの間、厳しい弾圧に晒されながら、信者たちは潜伏してオラショウを唱え |
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神父がいないなかで教えを信仰し、護り伝えてきたという、他に例のない背景に注目しているからであります。 |
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五島灘を囲む地は、キリスト教が最初に伝来した美しい辺境の地でした。この地は潜状に適した地でした。250年もの長期間には、 |
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踏絵にあい、仏教徒、神教徒にカモフラージュをしてまでも、強い信仰心のもとに教えを護り伝えてきました。 |
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古い教会堂は長崎、五島灘100Kmのとトライアングルに集中しています。 |
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私たちが尋ねた五島列島 福江港 中通島にありました。歴史を感じる教会群でした。 |
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素晴しい教会群、綺麗などこまでも続く海、波の寄せては返す素晴しさ、天気にも恵まれて思い出多い旅になりました。 |
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